本文
今度雑賀表信長着陣之時、中野在城衆、敵同心之儀、言語同断次第候。
乍去翻心中、向後聖人之御味方申、可抽忠勤被申輩者、此度之儀、可令赦免候。
猶敵心不相止類者、法敵勿論之事候間、為惣門徒中、堅可申付候。
五月二日 顕如花押
雑賀門徒惣中
現代文訳
このたび、雑賀表へ織田信長が陣を構えた時に、中野城にいた雑賀衆が、敵に同心(味方または同意)したことは、言語道断の事態であります。
しかしながら、考えを翻して、これから後、聖人の味方であることを申し出て、きっと忠勤を押し通しますと申している方々は、今回の件は赦免させることにいたしました。
それでもなお、敵と同じ考えをやめないようなものは、法敵であることは言うまでもないことでありますから、惣門徒の皆に固く申し付けておきます。
なお、刑部卿法限※から直接説明することにいたします。
あなかしこ
五月二日※※ 顕如花押
※刑部卿法限:下間 頼廉(しもつま らいれん、天文六年(一五三七年)- 寛永三年六月二十日(一六二六年八月十一日))は、本願寺法主顕如に仕え、織田信長との石山合戦では鈴木重秀(雑賀孫一)と共に本願寺軍の武将として織田軍を苦しめた。天正八年(一五八〇年)、本願寺軍が織田軍の前に敗色濃厚となると、正親町天皇の勅命講和により本願寺を退去することとなったが、頼廉も同族の下間頼龍や下間仲孝らと共に講和に署名している。(Wikipedia 2023.7.2目視)
※※日付は、天正五年(1577年)