千葉乗隆[1]「浄土真宗と北陸門徒:北陸門徒の組織」より抜粋
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[1] 千葉 乗隆(ちば じょうりゅう、1921年5月4日 - 2008年4月12日)は、浄土真宗の僧侶、仏教学者・歴史学者。学位は、文学博士(論文博士・1977年)。龍谷大学名誉教授・元学長、元相愛学園長・理事長。
真宗史、真宗教団史他の研究において数多くの研究、業績を残した。浄土真宗本願寺派安楽寺第26世住職。徳島県生まれ。
蓮如上人が出られた十五世紀の日本の社会は農村におきまして、惣村形成の運動が盛んになっています
村は都の貴族・寺社・武士などの権力者が思いのままに支配するのではなく、村人たちの手によって運営すべきであるという考え方です。この惣村形成の動きは、鎌倉時代末から南北朝、そして室町時代にかけまして、はじめは近畿、特に近江(滋賀県)の村において、自治的な意識がめばえひろがっていきます。十五世紀に入りますとほぼ全国的に惣村運動が展開されます。
ところが実際にそうした自治的な村を実現しようとしますと、当然そこに旧来の支配者との間に摩擦が起こります。やがてそれは一揆と称する積極的な抵抗運動となります。一揆は惣村形成を要求してだけではなく、支配者の不法行為や年貢減免などを要求する場合にもみられます。
馬借一揆は、惣村形成の刺激剤になり運動を活発化させます。惣とは、先にも申しましたように、地域の全住民が一致協力して自治的な村を形成しようということです。その地域の全住民を百姓と申します。
惣村は、全住民の意志を反映する自治的な村の運営を行おうとします。その際に村人の合意によって複数の指導者を選出します。これを乙名(オトナまたは長=ヲサ)と称しました。
やがて蓮如上人の伝道により、浄土真宗が村人の心の支えになります。それは、蓮如上人が地域社会への伝道として、まず村のお坊さんと、乙名と年老などを門徒化すること、つまり村の指導的な立場の人に、浄土真宗の教えを正しく理解してもらおうという方針を立て、精力的に働きかけられました。その結果、村を総あげにしてみな浄土真宗の門徒になる地域がひろがります。
そこで、村の組織と門徒の組織が一致をしてくるわけです。門徒の組織を蓮如上人以前は念仏者の惣といっております。
念仏する人がみんな合議制でもってご門徒の集いを運営するということが書かれております。もしもみんなの意志に反して行動するような者がおったならば、念仏者の仲間からはずす。こういう形で念仏者の惣というものが蓮如上人以前に出来上がっております。
惣村のあり方と違いますところは、惣村の場合の長(乙名)、リーダーは複数です。ところが念仏者の場合のリーダーは知識と申しまして、一人です。惣村の範囲というのは地理的な条件を一つにする集落の方々が寄り集まりまして、惣村を形成するわけですが、念仏者の惣はいわゆる何ヶ村にもわたりました広範囲の惣、組織ということになります。そして複数ではなく単数、一人の知識を中心にしまして、惣の運営をするということになります。
蓮如上人の時代に、念仏者の惣的な集いの組織の名前を「講」という名称をとるようになってきます。そこで集会をする日からとりました、一日講とか二日講とか三日講とかいった集会をする日に名称をとりました講とか、あるいはお集まりになるお方の例えば女性ならば女人講とか女房講など、性別による講の名称が付せられた念仏者の集まりが出来上がってくるわけです。
講と申しますのは、本来は「講会」、仏教を講義することです。それがやがて集会そのものに「講」という名称が使われるようになり、蓮如上人以後は「講」という名称をもって門徒の組織が運営されることになるわけです。
こういうことで、惣村と真宗門徒の組織とが一体化し、社会の動きに対応することになります。
蓮如上人が文明三年(1471)七月十六日に書いた『御文章』の冒頭に「文明第三初秋仲旬之比、加州或山中辺において、人あまた会合して申様、近比仏法讃嘆事外わろき由をまうしあへり。そのなかに俗の一人ありけるか申様、去比南北の念仏の大坊主もちたる人に対して、法文問答したるよしまうして、かくこそかたり侍へりけり」と、加賀の山中辺で仏法の集いがあったとき、ある俗人が大坊主との間で交わした問答をしるしています。
大坊主とは門徒を多くもった僧のことです。(経緯は御文章一帖目第一通)
こうした俗人がリードする聞法活動を蓮如上人は大いに活用されました。蓮如上人の熱烈な支持者であった近江の法住・道西もそのような人でした。堅田の法住は次郎三郎と称し、紺屋を家業としていました。彼が研屋道円・麹屋太郎衛門と本願寺に帰依して以来、堅田の商工業・運送業者などで構成される全人衆を土台に本願寺門徒の組織化が進み、隣郷の衣川・真野・仰木・和邇・雄琴から大津あるいは海津あたりまでさらには堅田の商業ルートに乗って奥州・北陸・山陰にまで進出しました。
湖西の堅田門徒とともに湖南金森の本願寺門徒の中心人物が道西です。彼は川那辺氏の一族で俗名を弥七といった。「天正三年記」に「近江の金森の道西[1]と申せし人は、後には善従と申し候。此人、細々大谷殿へまひられ、仏法者にてさふらいつるか、有時(7代)存如上人の御前に、此善従伺公せられ侍る時、蓮如上人御招きさふらひて、召寄られ御物語ともさふらひつる。善従有難く存せられ、常に金森へ御方様を申入られ聴聞さふらひつるに、在所の人々驚かれ、仏法も此時よりいよいよ弘まり申さふらひき」とあります。道西とその一族を核とする真宗門徒はやがては隣接の地域へとその影響を及ぼしていきました。
以上のように商工業あるいは農耕などを家業とし、それにいそしみながら僧侶としてのつとめを果たす人を毛坊主と称します。毛坊主とは、坊主の頭に毛髪を有するということです。頭に蓄髪するとともに、家庭や社会を捨てることなく、世俗の生活を営みつつ仏道に生きる人たちでした
地域社会のリーダーが毛坊主となることは、蓮如上人の方針ですが、しかし、毛坊主の源流は浄土真宗の開祖親鸞聖人までさかのぼります。親鸞聖人の教えは、他の仏教教団のように、家庭を捨て社会を離れ僧になって寺に入り、常に身も心も清らかにする戒律に固執しなくてもよかったのです。農民・漁師であろうと、官仕であろうと、念仏するものはみな等しく救われた。つまり在家の生活を保ちながら、仏になることができたのでした。
村の指導者階層の人たちを真宗の信者にひきいれる伝道方針は、蓮如上人の発想によるものであった。上人はまず村の坊主と年老と長(乙名)の三人を信者とするよう指令しました。「此三人さへ在所在所にして、仏法に本付き候は、余のすえすえの人はみな法義になり、仏法繁昌てあらうするよ」といっておられます。国々への真宗伝播は、上人の此の方針に従ってなされ、とくに中部地方山村ではこれが徹底して実施されました。毛坊主は直接的には実にこうした蓮如上人の伝道方策の所産であるともいえます。
村の長(乙名)が真宗門徒になると、彼は蓮如上人から六字名号を書いてもらって、それを自分の家の一室の床の間にかけ、香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の施設をととのえます。これを内道場または家道場といいます。この内道場で長が引き入れた村人たちは、長を先達とする宗教儀礼を行います。つまり長の導師の下に仏前で正信偈をとなえ、その法話をききます。
やがてその村で、真宗門徒が多くなると長の家の一室を開放した内道場では手狭になります。ここで村人たちは資金や資材及び労力を提供して、一戸建ての道場を建設します。これを惣道場と称します。この惣道場における宗教儀礼を主宰するのもやはり引き続いて村の長の手で為されます。江戸時代中期以降になると、惣道場は、木像の阿弥陀仏を安置し、寺としての形体をととのえ、寺号を名乗ります。しかし寺を管理し儀礼を執り行うのは相変わらず毛坊主です。もちろん、この間に毛坊主の職業僧化する者も現れるが、中部山村には毛坊主のままの形を残すものが多く見られます。
[1] 道西は寛正6年(1465)に本願寺が取り壊されたときに蓮如上人を金森に招きました。蓮如上人はその後金森に三年間滞在し、湖南の各地に教えを広めました。
守山市サイト「善立寺」
https://www.city.moriyama.lg.jp/kanko_event_manabi/kankou/1002777/1004849/1004852/1004865.html
真宗の寺院を調査しますと、たいていの寺院は蓮如上人なり親鸞聖人にまでその創立を結びつける場合が多くみられます。しかしその実態は真宗寺院のだいたい90%以上は江戸時代のはじめに寺が出来上がったといえます。真宗寺院の数の移り変わりを見て参りますと、南北朝時代の文安六(1449)年の時点ではだいたい二十二ヶ寺ほどです。
それから百年ほどたちまして戦国時代の天文二十四(1555)年には二百五十ヶ寺ほど、それからまた七~八十年ほどたちまして、江戸時代のごくはじめの元和九(1623)年にはおよそ千ヶ寺ぐらいです。
これが七十年後の元禄七(1694)年には西本願寺だけで八千三百五十九となります。だいたい東もほぼこれに近い数字でございますので、両方合わせますと一万五千~六千になります。
それから安政元(1854)年には西本願寺だけで一万六百六十九ヶ寺です。寛永年間から寛文年間にかけまして、本末制度という寺院の上下関係を定める法令が発布されました。それを契機にしまして道場の寺院化がなされます。
もう一つは寛文年間に檀家制が設けられます。これは日本全国民が必ずどこかの仏教寺院に所属をしなければいけないという制度です。そうしますと全国民を登録する、寺が必要になってくるわけです。それで各村々に寺が一挙に出来上がってくるのです。こういうふうな檀家制度と本末制度の整備により寺が急増します。
寺がたくさんできると、国民の負担になるということで寛永年間と元禄年間の2回にわたりまして、新寺建立停止令、新しい寺をこしらえてはいけませんという命令を出します。ただ新寺建立停止令の中に除外例がありまして、寛永年間以前にあった寺を復興するのであれば認めるというのです。
そこで各お寺は親鸞聖人がお開きになった寺がその後廃絶したのを復興するのです、とかあるいは蓮如上人がお建てになったお寺がその後火災で焼けたのを復興するのですとか、そういう由緒書きをくっつけまして願い書を出しまして新しく寺を建てると、いうことになります。そこで現在残っております寺の由緒書きを拝見しますと、そういう形で新寺建立停止令の除外例によって建てた寺ということです。
浄土真宗は村のリーダーがお坊さんの役目を勤めまして、政治的にも宗教的にも村民から尊敬を受ける、そういう方が中心になって門徒組織を育てあげてきました。
ところが天正年間に豊臣秀吉がキリシタンの禁制をします。
その後、寛永十二年(1635)九月にもキリシタン禁制についての政令が発せられ、同十四年から十五年へかけての島原の乱以後は、特に厳重にこれを行い、領内の全住民を対象とする宗門改が実施されました。その際、庄屋・町年寄の証印する俗請よりも、寺請が宗門改の有効な手段として諸国で採用されるようになりました。
寛文四年(1664)宗門改の専任職員を置き、翌五年法度書を全国に発布し、十一年(1671)宗門改の方法を訓令しました。それによると、全住民は一軒ずつ人別に年齢・宗旨を書き、一家の戸主が捺印し、僧侶がこれを証明します。そして一村または一群ごとに男女の統計を出し、生・死・縁付・奉公等の出入り増減を記載させました。これを宗門改帳または宗旨人別帳と称し、定期的に調査が行われました。この僧侶の証印を要するという、いわゆる寺請けが全住民に適用され、ここに檀家制度が成立します。
寺請はキリシタン宗徒ではないことを証するもので(のちに日蓮宗諸派、鹿児島では浄土真宗も対象となる;玉川注)、かならずしも仏教信者でなくとも、形式上檀家として寺に所属すればよいわけでした。従ってこの制度の実施は、真宗の門徒組織のあり方とは本質的に相違する点があります。
江戸中期に慶長十八年(1613)に仮託して作った幕府法度には、
一、死後死骸に頭剃刀を与え戒名を授る事。是は宗門寺之住持、死相を見届て邪宗にてこれなき段、慥に受合の上にて引導致すべき事。
一、相果(あいはつ:死ぬ)候時は、一切宗門寺之差図を蒙り修行の事。
とあって、明確に葬儀年回を中心とする関係へと移行しています。
この門徒組織から檀家制度への移行を示すものに、また「過去帳」の作成があります。真宗寺院に現存する「門徒過去帳」は、明暦・万治・寛文年間に起筆されたものが多く、その早い例としては、石見国粕淵浄土寺[1]のもので、寛永元年(1624)から記帳しています。
その過去帳の氏名を点検すると、寛永十二年頃までは、記載数が少なく、姓をもったものが大半を占めています。
寛永十三年以後になると、姓をもたない庶民階層の名が多くなり、記載数も年を追って増加しています。これによって、最初の頃は、武士・名主層の地方の有力者が葬儀を執り行っていましたが、やがて農民・商人等庶民階級の間でも葬儀を行い法名を付し、そして過去帳にしるすようになったものと思われます。とともに、これは門徒組織から檀家制度への移行の一過程をも示すものでしょう。
すなわち、寺が過去帳を備えたという事は、宗門改にともなって生じた新しい寺と門徒との関係が、葬儀・年回中心に移りつつあることを物語るものです。そして、門徒は寺を維持すべき義務を負わされ、寺の建立や営繕の費用を出さねばならず、こうした寄付とか年忌法事等を怠ると邪宗門として弾圧を受ける場合も生ずるようになります。
[1] https://www.kankou-shimane.com/destination/20796