阿闍世物語
大般涅槃経、観無量寿経、教行信証(信巻)
大般涅槃経、観無量寿経、教行信証(信巻)
キーワード:未生怨,慙愧,二種の罪悪感,無根の信,阿闍世の回心,韋提希の回心
阿闍世物語において、未生怨(みしょうおん)、慙愧(ざんき)、二種の罪悪感という三つのキーワードは、釈尊のはたらきや阿闍世、韋提希の回心を読み解く重要な視点です。本稿では、これらの要素を中心に据え、阿闍世物語に込められた親鸞聖人の思想を探ります。
未生怨とは、『大般涅槃経』に登場する阿闍世が、生まれる前から母親である韋提希夫人に怨まれた存在であることを意味します。これは、阿闍世の母が仙人を殺害し、その呪いによって「未来に父を殺す運命の子」を産むという因縁から生じています。韋提希は、産んだ阿闍世を高い塔から落としますが、彼は奇跡的に生き延びます。この時点で、生きる存在としての未生怨=阿闍世の人生が始まるのです。
韋提希は、顕在化した生きる未生怨である、阿闍世を育てながら、どのような思いをしていたかについて言及する経典は見当たりません。しかし、阿闍世は自分の生誕時に、両親がどのような思いを自分にかけていたかを知ることになり、怒りのあまり父を殺し、母を幽閉するのです。
韋提希は釈尊に救いを求めます。
「世尊(釈迦如来)、私は深い悲しみに打ちひしがれています。我が子は、父王を幽閉し、ついには殺害してしまいました。私は、このような悪業を犯した息子を持つ母親として、いかなる罪を犯したのでしょうか。そして、このような苦しみから、どのようにして解放されることができるのでしょうか。世尊、どうか私に教えを授けてください。」
しかし、ここには自ら作った未生怨に対する認識はありません。
一方、父を殺害した阿闍世はその罪に気付き、重い病にかかります。阿闍世の父母への殺意と父親殺しの罪悪感の間で苦しむ、心理的葛藤は、フロイト的なエゴ(自己の欲望)とスーパーエゴ(道徳的・社会的規範)の対立として解釈することも可能でしょう。
阿闍世も、死んだ父からの声と側近の耆婆 (ぎば)の勧めをえて、釈尊に救いを求めます。
釈尊はこの母子の葛藤に直接介入することなく、むしろ彼らが自らの因果関係を洞察する手助けを行いました。釈尊の教えは、彼らの罪を責めるのではなく、罪そのものが無数の因縁によって形成されたものであることを悟らせることにありました。これにより、固定化された「罪」の概念から彼らを解放し、相互依存の関係性に目覚めさせるのです。
慙愧は、罪を犯した者がその行為を深く恥じ、悔い改める心の働きです。この心情は阿闍世の回心において重要な役割を果たします。父を殺し、母を怨んだ阿闍世は、その罪悪感の重さに耐えられず、病に倒れる。しかし、釈尊の教えに触れ、韋提希の献身的な看病を受ける中で、彼は自らの行為を省み、心からの悔悟に至ります。このプロセスは、釈尊の慈悲が単なる赦しではなく、罪を犯した者が自ら罪を認識し、超克するための内なる力を引き出すものであることを示しています。
また、阿闍世物語における二種の罪悪感、すなわち処罰を恐れる罪悪感と赦されることを望む罪悪感は、物語の中核であると、心理学者 古澤平作(1897-1968)は指摘しました 。処罰型罪悪感は、阿闍世が父を殺した後の恐怖と後悔に見られるものであり、赦され型罪悪感は、彼が釈尊の教えを通じて自己を省みる過程において顕在化しました。この二種の罪悪感の対比は、阿闍世が恐怖から解放され、釈尊の慈悲に触れることで、真の意味での救いを得る過程を描いています。
さらに、無根の信という概念もまた、阿闍世物語を理解する上で欠かせない要素です。無根の信とは、阿闍世が釈尊と出会い、仏法への信心を得た際に示されたものであり、信の根拠がなくとも救いが開かれるという考えを示します。阿闍世は自身を「悪臭を放つ伊蘭の種」になぞらえ、それが仏法の力によって「芳香を放つ栴檀の木」へと変えられたと述べます。この比喩は、煩悩に満ちた人間が釈尊の慈悲によって本来の仏性を取り戻す過程を象徴しています。
無根の信は「人間の内在的な限界を超え、仏の智慧と慈悲に依存する信仰の姿勢」を示していると理解できるでしょう。釈迦の真理は、「真実は自己の努力や限界を超えたところにある」ということであり、この教えが阿闍世の回心を導いたと解釈できる。
親鸞聖人は教行信証の信巻で、阿闍世物語の長い引用を行っています。そこで、伝えたかったことは、すべての人間が多くの因縁に絡め取られながらも、それらを悟り、超えていく可能性を持つ存在であるという点にあるでしょう。親鸞聖人は、阿闍世や韋提希の回心を通じて、阿弥陀仏の本願がいかなる人間にも開かれていることを強調します。阿闍世の物語は、罪を犯した者が自らの罪を正面から見つめ、慙愧の心を持つことで、煩悩を超えた新たな生を得る可能性を示しています。そしてその可能性を開くのが、釈尊の慈悲であり、阿弥陀仏の本願であると親鸞聖人は示唆しているのです。
未生怨、慙愧、二種の罪悪感、そして無根の信は、それぞれが阿闍世物語の中で人間の心の葛藤と救済のプロセスを表す象徴的な要素であり、それらが織りなす物語は、親鸞聖人が説いた「すべての人々に等しく与えられる救い」の真髄を伝えるものと言えるでしょう