(帰洛後の)親鸞の京都生活は多く門弟達から送られる懇志によるものでありました。
一人の額は二百文とか三百文の場合もあるが、五貫文・二十貫文という例もあります。
一貫一石として計算すれば相当な金額です。
この二十貫文の志を送った真仏の俗姓は下野高田在の武士で、親鸞の門弟にはこうした武士や富裕な農民がおり、従ってその懇志も相当の額に達していたと見て差し支えないでしょう。
しかしながら、親鸞の家族は1254(建長六)年ごろまでには、生活の不安定のためか、親鸞と覚信尼を京へ残して地方へ分散しました。
妻恵信尼・小黒女房・信蓮房・益方・高野禅尼の五人が越後へ下り、善鸞が関東へ下ったのです。(参考資料1,pp67-68)
蓮如出現の頃には、本願寺やその末寺・道場に寄進されたものは、百姓や惣中の生産余剰であり、守護勢力の排除を通じて、本願寺と門徒が仏法・世法の繁栄を増大させました。
しかし、寄進は法施に対する報謝の志であり、精神的な報謝も含まれるが、財政的喜捨に限ってもその額は任意で一定していませんでした。
そこで、蓮如はこの寄進に対して「年貢代」や「毎年約束錢」といった文面を各講宛てに出し、寄進が定量化され定期的に上納される年貢化を進めました。
この寄進の年貢化は、本願寺が領主化することを示し、単なる精神界のみならず、世俗の領主も兼ねるようになりました。(参考資料1,p207,p287)
「仰に、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰には、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。(空善聞書がき)
江戸時代後期、西本願寺は深刻な財政危機に瀕していました。
文政年間の借財は60万両、当時の本願寺の年間予算が1.5万両であるから、40年分の収支が合わなくなっていたことになります。
(21世紀初頭の浄土真宗本願寺派の年間予算を安く見積もって40億円とすれば、実に1,600億円相当:筆者補足)
文政十三(1830)年十月、時の門主広如はこの莫大な借財を皆済すべく、大坂天満の豪商で門徒の大根屋小右衛門(石田敬起)に財政改革を一任しました。
小右衛門は岸和田・富山・尼崎などの諸藩の財政改革を成功させた著名な財政家として知られます。
彼は家業を息子に譲り自らは寺内町に引っ越し、広如の信頼をバックに財政改革を断行しました。
驚くべきことに、六年後の天保六(1835)年までに財政建て直しに成功するのです。(参考資料4,pp9-11)
石田敬起の天保改革(1830年)以降、宗門の財源は、
(1)門主の帰敬式、免物冥加金、志納金、その他の本願寺収入、
(2)一般の自由懇志、
(3)義務的懇志
以上を合わせて「三季冥加」と呼ぶものによりました。(「宗門実態調査特別審議会答申書」昭和53年12月27日)
その算定要素が「堂班」です。
「堂班」とは、明治9年に真宗四派が教部省に提出した『宗規綱領』で、末寺僧侶に授ける寺格階級を改称したもので、「法会式の席順」を指します。
その後、昭和16年に宗教団体法に基づく『真宗本願寺派宗制』において、「三季冥加」が「賦課金」と改称されました。
また、僧階制度は明治初期に改革されつつも、堂班制度として細分化されました。
1949年に堂班制度が改められましたが、1955年に「類衆規定」として再編成され、現在の八座七等の五十六席が確立されました。(参考資料2)
戦後の日本の寺院は、都市と農村で異なる困難に直面していました。
都市の寺院は区画整理や戦禍からの再建に追われ、農村の寺院は農地改革と食糧難で支持者を失い、物価の高騰と無信仰の広がりで収入が減少しました。
1954年(昭和29年)の調査では、全国の寺院の50%以上が教員や書記などの兼職をしていました。
経済的困窮と兼職による時間不足で悪循環に陥り、多くの子弟が寺を継ぐことを嫌がっていました。
このような状況では、大遠忌(1961[昭和36]年親鸞聖人7百回大遠忌)待受運動の効果を疑問視する向きがありました。(参考資料1,p528)
昭和22年に『賦課規程』が施行され、「寺院」は「門徒数」に基づき、「僧侶」は職位に応じて賦課されました。
昭和23年には『寺院類別査定条例』が施行され、門徒数に基づく6つの類別で賦課が行われました。これにより、以前の「堂班」制度から「門徒戸数」を基準とする賦課制度へと移行しました。
しかし、これに伴い公式の門徒戸数が減少し、昭和27年には門徒戸数が約88万戸にまで減少しました。
宗門の民主化と財政の確立は今後の課題とされています。(「宗門実態調査特別審議会答申書」)。(参考資料2)
それまで、宗派の賦課制度は寺院役職や届出門徒戸数を基準としていましたが、高度経済成長に伴う都市集中と地方疲弊で経済格差が拡大しました。
この問題に対応するため、昭和41年(1966)「類聚要素(寺班・僧班)」並びに「護持口数」を要素追加した賦課制度となりました。護持口数は各寺院より申告してもらうこととなり、実施は昭和45年になりました。
また、平成12年に「中央護持口数調整委員会」が設置され、地域の経済格差を考慮して「県民所得」と「寺院収入」を基に「教区別目標護持口数」が算出されました。
この護持口数制度は、教区内での収入格差を調整するもので、4年に一度見直されます。現行の賦課制度は、従来の門徒戸数と護持口数の二つの基準に基づいていますが、調整の難しさが課題となっています。(参考資料3)
資料1:真宗史概説赤松俊秀(編集),笠原一男, 平楽寺書店,1963
資料2:教財一如考⑤―寺法制定以降の賦課制度(その1),池田行信,慈願寺,https://jiganji.exblog.jp/28274061/
資料3:教財一如考⑥―寺法制定以降の賦課制度(その2),池田行信,慈願寺,https://jiganji.exblog.jp/28279947/
資料4:天保の大屋根改革と門徒の力,万波寿子,本願寺史料研究所報36,本願寺史料研究所,2009